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研究・調査活動―シンポジウム・ワークショップ

人間文化研究機構現代中国地域研究プログラム東洋文庫現代中国研究資料室・辛亥革命百周年記念日本会議共同開催
辛亥革命百周年 東洋文庫ミュージアム特別展示記念講演会

・日時:2月5日(日)14:00~16:40
・会場:(財)東洋文庫新本館2階講演室
(ポスターはこちら
・報告者及び報告テーマ
開会挨拶 高田幸男(明治大学教授・東洋文庫現代中国研究資料室長)
「清朝からみた辛亥革命」村田雄二郎(東京大学教授・東洋文庫客員研究員)
「宮崎滔天と辛亥革命」久保田文次(日本女子大学名誉教授)
閉会挨拶 松尾浩也(東京大学名誉教授・学士会理事長・法務省特別顧問・荒尾市出身)

 東洋文庫ミュージアムでの辛亥革命百周年記念特別展示が好評だったため、東洋文庫現代中国研究資料室は、辛亥革命百周年記念日本会議と共同で、一般向けシンポジウムを開催した。参加者は延べ130名を超え、東洋文庫講演室の収容人数をオーバーしてしまい、比喩ではなく立ち見が出た。講演者は村田雄二郎、久保田文次両名であり、両名とも辛亥革命百周年記念日本会議事務局のメンバーである。

 村田雄二郎氏は、講演の最初で、「清朝からみた辛亥革命」というタイトルは聞き手に違和感を与えるかもしれない、と述べた。なぜなら本日の報告は、革命党によって打倒された清朝およびそれを支えた北洋軍閥に焦点をあて、宮崎滔天や孫文について多くは言及しないが、清朝側に光を当てることで、敗れた側がどのような状況・心理状態に置かれていたのかを明らかにし、革命側の動向と組み合わせることによって多元的な辛亥革命像をとらえる一助となるだろう、と述べた。
 続いて、村田雄二郎氏は辛亥革命の背景について言及した。すなわち、1911年の辛亥革命よりさかのぼって論じれば、1900年の義和団事件以後清朝は新政を通じて政治改革を開始するが、こうした改革は結実することなく1912年2月の宣統帝退位(遜位)をもって清朝支配は終わりを告げた。惲毓鼎が後年嘆いたように、1900年以後の新政は、日本への留学生の増加、諮議局・資政院設置による民衆の政治参画開始、新式軍隊の編成といった「亡国三妖」を生み出す結果となっていた、とする。
 さらに、辛亥革命が勃発すると、戦闘の即時停止をもとめて南北講和会議が1911年12月に上海で開かれた。南方の代表は伍廷芳、北方の代表は唐紹儀であった。両者ともに海外経験が長く、中国における共和政体施行に前向きな態度では一致していたが、宣統帝や満蒙回蔵の諸地域の扱いについては意見が分かれた、と村田氏は述べた。武昌蜂起自体が突発的事件であり、そのうえ革命派自体が大きな軍事力を背景にしていたわけではなく、革命派側の準備不足は否めなかったためである。しかし、こうした最中にあって、立憲派の活動は注目に値すべきであると村田氏は指摘した。なぜなら、南北双方に人的パイプを持つ立憲派は南北を斡旋することで講和会議を円滑にすすめて、両者の妥結点を見出したからであり、辛亥革命が郷紳革命と呼ばれるゆえんもここにある。この講和の背景には「民国の産婆」とよばれ、水面下で工作を行った張謇の幕閣趙鳳昌の貢献があることも村田氏は強調した。
 続けて、近年発見された宣統帝の退位詔書草稿を紐解けば、従来、袁世凱の詔書改ざん説が指摘されているが、南方で起草された素案をもとに袁が加筆したと考えるべきだろう、と村田氏は述べた。他方、同詔書は共和政体の在り方、満蒙回蔵の位置づけや清帝・清室の優待条件に関しては南方から強い反発があったが、彼らは主権の保持、領土統一、国民統合という観点から相互の妥協に至らざるを得なかったのである、と結論づけた。
 最後に村田氏は、辛亥革命が禅譲革命だったのかというと、それは清朝からの視点にとどまるものであり、しかし平和的な無血革命だったのかといえば、日本の戊辰戦争と比べれば犠牲者は少なかったかもしれないが、西安・武漢・南京・福州では満洲八旗や革命軍にも多くの犠牲者が出ているので、「無血」というには留保がつけられるべきであろう、と述べた。戦闘が短期に終わり、共和政体として中華民国が早急に成立したのも、北洋派軍閥の軍権の影響ということができる。かくて、辛亥革命とは幅広い諸勢力の妥協と連合の産物だったといえるだろう、と結んだ。

 久保田氏によれば、宮崎滔天は現在の熊本県荒尾市の郷士兼大地主の家に生まれた。滔天が中国革命と関わったのは兄の弥蔵の影響が大きい。滔天は、中国革命を成功させ、そのことによって日本にも変革を起こし、その後日中が提携して世界を変革するという「世界革命」の構想を抱いていた。この点において、滔天は日本を盟主と考えた他のアジア主義者とは異なっていたが、中国革命を援助するためには、犬養毅や頭山満といった人々の権力や財力に頼らざるを得なかった、と指摘した。
 さらに久保田氏は、滔天と孫文の出会いについて以下のように述べる:中国革命の指導者を孫文とみた滔天は、中国で孫文を探していたが、孫文は1897年8月16日に横浜につき、部下の陳少白の家に滞在していた。これを知った滔天は9月初旬に帰国し、孫文と対面した。滔天は、孫文に東洋風の豪傑らしいところがないことに失望したが、孫文が革命について熱弁を振るい出すと、その思想・見識・抱負・情念に感銘し、孫文に対する生涯の協力を誓った。滔天は孫文の革命を支援するため、政府・軍部・実業家の間を奔走し、1900年の武装蜂起失敗後には生活のために浪花節語りにもなった。滔天が執筆した『三十三年の夢』は、世界で初めて孫文の革命思想を詳細に紹介したものである。中国でも翻訳が出版されたこの書籍は、孫文が民族主義ばかりではなく「人権公理」の民主主義をめざす革命家であることを中国人に理解させる大きな契機となった。
 1905年7月15日、滔天はヨーロッパから横浜に到着した孫文を黄興と引き合わせ、20日には東京で中国同盟会が成立した。従来は地域的にも階層的にもマージナルであった革命運動に、中国経済文化の中心であった長江流域の中等階層の知識人が多く参加する形となった意義は大きい、また同盟会内部には分裂があったものの、ヨーロッパの革命党派よりは共通の思想を持つ団結を実現したといえる、と久保田氏は指摘した。
 1911年の辛亥革命後も、孫文は袁世凱のいわゆる反動化のために革命継続を余儀なくされた。その後、孫文は活動の場を中国に移し、滔天の役割は宣伝と斡旋へ変わっていった、と久保田氏は述べる。滔天は大正デモクラシーを迎えた日本に望みを抱いていたが、日本政府は中国への強圧的武断外交を進め、「内に民本主義」を信奉する日本国民も「外に帝国主義」の夢を捨てきれなかった、と久保田氏は指摘する。そして滔天は1922年、腎臓病に尿毒症を併発し、中国革命に献身した生涯を終えたのであった。
 最後に久保田氏は、滔天や息子・龍介が残した史料は、東洋文庫ミュージアム特別展示で陳列されているもの以外にも多数あり、中には、革命家たち(蒋介石、黄興、胡漢民、陳其美、廖仲愷、戴季陶など)がまだ無名であった頃のものとみられる寄せ書きや署名もあって、豊かではなかったはずの生活の中でこのような人々を遇した滔天一家の無私の厚情が偲ばれる、と述べた。このほか、宮崎家にも多数の貴重な史料が保存されており、こうした史料の整理・公開によって歴史に対する理解を深めたいものである、と結んだ。

 質疑応答では、文京区白山神社にある、孫文と滔天が腰かけて革命を語ったとされる腰掛の石という史跡の真実、モリソンと袁世凱の関係、清朝崩壊後の満族の運命、宮崎滔天の浪花節語りはプロパガンダとしての側面もあったのではないか、21カ条要求の真偽についての質問が出るなど、活発な質疑応答が行われた。

報告者等紹介
高田 幸男(たかだ ゆきお)…

1993年明治大学大学院博士課程単位取得退学。明治大学文学部専任講師・助教授を経て、現在明治大学文学部教授。財団法人東洋文庫現代中国研究資料室長を兼任。

村田 雄二郎(むらた ゆうじろう)…
1986年東京大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学教養学部助手・講師・助教授などを経て、現在東京大学大学院総合文化研究科教授。

久保田 文次(くぼた ぶんじ)…
1967年東京教育大学大学院博士課程単位取得退学。日本女子大学にて講師・助教授・教授を務め、2005年同大学を退職。現在日本女子大学名誉教授。

松尾 浩也(まつお こうや)…
1928年熊本県荒尾町(現・荒尾市)生まれ。1954年東京大学法学部法律学科卒業。同年同法学部助手就任。その後東京大学法学部教授・法学部長などを歴任。現在東京大学名誉教授・学士会理事長・法務省特別顧問などを務める。

文責・
衛藤安奈(慶應義塾大学大学院博士課程)
土肥歩(東京大学大学院博士課程)

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